天草・御所浦の方言 森 喜行 御所浦を離れて幾年月。あの言葉はどういう意味だろうと、なにかの拍子にふと思い出すことはありませんか。単なる訛りだと思っていた言葉が実は日本のおもむき深い「古語」だったと気づいた時など、どうしてどうして、たかが御所浦弁、されど御所浦弁と、密かに誇らしく感じるのは私だけでしょうか。以下、御所浦弁を解釈してみましょう。 ○あえ…あへ。餐と書く。飲食物でもてなすご馳走(万葉集)。御所浦ではオカズの意味? ○あえる…熟した果実が樹から落ちること。古語。御所浦では、雨の降り始める様子などにも使用。 ○あぐる…あげる、もどす、嘔吐すること。 ○あじゃらかこつ…驚異的に多いこと。あじゃ、は驚いて思わず発する言葉から来たのかも。 ○あしなか…足半。短いワラ草履。昔の御所浦では浜行きの必需品。 ○あた…敵。賊。害を成す者。古語。御所浦では悪さ、イタズラの意味。 ○あぼ…兄。韓国語のアボジ(父親)と語源は同じかも。ちゃん…父。かん…母。 ○あめんちょ…飴。 ○あやす…落とす。したたらせる。古語。御所浦では例として樹をゆすって実をふるい落とすときに用いる言葉。 ○あゆぶ…歩く。幼児のアンヨ。茨城県でも。 ○あらよっこいしょ…感嘆の声。あらら、なんとまあ、といった意味。あらよっこれー、あらよー、とも。 ○あわめ…舟虫。磯辺の掃除屋的存在の小さな虫。メジナ釣り等の餌。 ○いげ…植物のトゲ。魚の小骨も。東京のとげ抜き地蔵と同じ信仰の対象は栖本のいげ神様。 ○いける…埋める。 ○いこだ…ほら、行こうよ。 ○いさな…我が家のこと。いざなう、誘うが語源の古語とされる。客人を招くところという意味。 ○いしたたき…セキレイ。長い尾羽を上下させる様が石を叩くように見える。福島では河原スズメと呼ぶとか。 ○いそしか…いそしい、とは雨上がりなどのすがすがしい気分のこと。 ○いたっくっで…行って来るからね。 ○いたっけのい(な)…行ってらっしゃい。語尾の「のい」「な」は敬語。近年「な」に集約されつつある。 ○いっかかる…総勢で事にあたること。または打ち水などがかかってしまうこと。 ○いっくゎえる…壊れる。崩壊すること。 ○いっだん…かえって。益々。一段と。 ○いっちょん…まったく、ひとつも。 ○いっぴゃんごんじゅう…盛沢山。いっぴゃ、は一杯、ごんじゅう、をつけて溢れんばかりにと強調。 ○いわがらす…イソヒヨドリ。海岸に生息するモズくらいの褐色の鳥。地元でも鳥好きでないと気づかない。 ○いを…うお。魚。源氏物語でもイオと記述。御所浦では「イヲば噛む」「イヲばなめる」と表現する。 ○うーかぜ…台風。うー、は大きい、または多い、という意味。うーあめ(大雨)うーみず(洪水)、うーか(多量)。 ○うしてる…うしつる。打ち捨てる、という意識的な場合も失うというアクシデントの場合も「すつる」は古語。 ○うつ…打つ。叩く。殴ること。 ○うったつ…打ち立つ。出発する。 ○うったわす…打ち倒れる。日射病などで突然倒れること。急に寝込むこと。 ○うっちゃう…かまう。 ○うっちゃめ…打ち雨。雨が降込むこと。 ○うっちょかるる…打ち置かれる。放置されること。 ○うっちょこし…打ち起こし。メンコのこと。遊びの所作がそのまま、名称に。 ○うっぱんかやる…(お盆などが)ひっくりかえること。また(船などが)転覆すること。 ○うばんぎゃか…不用意な。無謀な。危なっかしい様。 ○うりどん…「潤い」が短縮された言葉か。つまり梅雨。先人は自然現象を敬い、様や殿をつけた。梅雨殿。 ○え…家。 ○えーっと…たくさん。 ○えくらう…酔っ払う。えくらどん…酔っ払った人。 ○えど…魚のエサ。古語。近年の養殖では現代語でエサと。 ○おえぐ…泳ぐ。 ○おごる…怒る。叱る。香川では、おごく。 ○おじる…降りる。例「とうちゃんな、忙しかっぞ。いつまっでん、てんぐるまんじょしられんと。早よ、おじれ」 ○おしをる…押し折る。木の枝などをへし折ること。 ○おずむ…目覚める。例「寝えたっかい?おずどっとじゃろ、こん子は、とうちゃんの話ば聞かんか」 ○おっしゃきゃしいゆっとに…私でさえ出来るのに。「しい得る」は「しいきる」とも。 ○おっとる…盗む。 ○おっどむ…我々。おっどんが…我々が。 ○おとて…おととい。一昨日。 ○おどか…性悪。 ○おびく…尾引く。料理の際キビナゴや小イワシ等を指で開き、骨や内臓を取り除くこと。宮崎でも。 ○おぶか…重い。例「こん子のおぶさよ…ばあちゃんな腰のふっちがうばい」(重くて腰が抜けそう)。 ○おまえ…なかい(仲居)。居間。茶の間のこと。 ○おめく…わめく。叫ぶこと。古語。 ○おやす…(草やヒゲなどを)生やすこと。伸びるにまかせること。 ○おるがつ…俺のもの。わるがつ…君のもの。 ○おろいか…おろ良か。「おろ」は比較的少ないという意味。さして良くないこと。九州では一般的言い方。 ○おわしゅる…汚い抽出液のこと。あるいは単に、しぼり汁。 ○おんぶくるる…水に溺れること。 ○かかじる…引っ掻くこと。 ○かけだし…架け出し。平地拡張のために孟宗竹などを架け並べて岸壁に設置した棚場。 ○かごむ…屈む。古語。かごめかごめ、かごのなかの鳥は…。 ○かずむ…臭い(匂い)を嗅ぐ。鳥取でも。例「ショケに入れたばってん、ねまっとるかも知れんで、かずでみろ」 ○がぜ…ウニ・ヒトデの古称。ガゼを食す習慣は天草の他、中国・青島でも。卵巣でコレステロールが多い。 ○がせっぽ…しゃしゃんぼ。ブルーベリー近種の低木。がねんぼ…山葡萄。 ○かたし…椿の古語。実や木が硬いから。郷里では昔、自生する藪椿の実を搾って食用、整髪に利用した。 ○かたげる…肩上げる。担ぐこと。 ○かち…徒歩の古語。東京に御徒歩町。昔は船便に対して使った言葉。現代は主に対車。 ○かてる…加える。静岡、栃木でも。「かてて加えて」なら一般的。かたる…参加する。 ○がね…蟹。カニのこと。 ○がねんめ…ランプ以前の照明器具。皿に灯油を注ぎ灯心を浸した物。飛び出た灯心が蟹の目に似ていた。 ○がぶる…木やブランコ等を揺すること。相撲に「がぶりより」という技がある。古語。 ○がまだす…精を出す。頑張る。我慢を自らに強いること。 ○かまや…台所。厨房。 ○からう…背負うこと。 ○がらかぶ…魚のカサゴ。 ○からんがま…収穫したサツマイモの保存のために掘った竪穴。カヤやワラで覆って雨水の浸入を防いだ。 ○がんのむじょ…ガマズミの実。秋、赤い米粒大の密集した実は甘酸っぱい。葉が美しく紅葉する中低木。 ○かんぴしゃぐ…噛みつぶす。釣具の小さな鉛のおもりを噛んでテグスに固定する時などに使用する言葉。 ○かんぽ…かんぼ。からいも。さつまいものこと。アメリカ、ニンジン、むらさき、コクホウなどの品種があった。 ○かんらん…キャベツの仲間。はなかんらん…カリフラワー。 ○きびる…くくる。くくりつける。束ねて結ぶこと。 ○きゃころぶ…きゃ・転ぶ。足を取られてうっかり転倒すること。きゃ、は接頭語。転ぶ、を強調する意味。 ○きやす…消す。 ○きゃなえる…ひどく疲れること。なえる、は萎える、しおれる、という意味。 ○ぎゃんた…こんなのは。そぎゃんた…そんなのは。尚、そぎゃんた、はそうだ、という同感の意味でも。 ○〜ぎら…ならば。仮定。ひょろばやらんぎら…もしも、エサを与えないならば。〜とぞ…だぞ。古語っぽい。 ○きらず…おから。うのはな。料理において切る必要がないから。切らず。 ○くえる…崩れる。崩落。土砂崩れ。 ○くじる…堀りくじる。ほじくる。穴の中をもてあそぶこと。 ○くちおしか…口惜しい。くやしい。極めて残念という意味。古語。 ○くっとさな…来るんですよ。 ○くやく…苦役。公役?どぶさらいや道路の補修などの地域における共同作業。 ○ぐらしか…切ない気持ち。気の毒で不憫に感じること。鹿児島でも。 ○ぐらりする…がっかりする。落胆する。 ○くらわす…ぶん殴ること。 ○くろいを…魚のメジナ。 ○け…来い。おいで。 ○こいどり…肥取り。ワラを編んだカゴ。主に農作業で肥料や収穫物の運搬に天秤棒で荷って用いられた。 ○こがす…植物を根っこごと引き抜くこと。 ○こぎる…小切る。魚などをさばく。または骨ごとブツ切りにする。打ち小切る…乱暴に切断する。 ○こしゃぐ…こそぐ。表面を削る。そぎ落とすこと。 ○こずむ…寄せ集めて積み上げること。 ○ごちゃ…図体。身体のこと。五体が訛ったか? ○こちょばいか…こそばゆい。くすぐったい。 ○こづく…咳き込むこと。 ○ごっかぶり…ゴキブリ。御器被り、台所の食器の下に潜んでいる様子からか。牧島の杉田百合美情報。 ○ごっとり…度々、恒常的に。例「こん男はおるが家ん娘ば好きじゃろた。ごっとり遊びぎゃ来っとじゃもん」 ○ごて…亭主。ごてどん…旦那さん。 ○ことわる…詫びる。 ○ごな…ごうな(寄居虫)。ヤドカリの古名。御所浦では「ごなじょ」とも。 ○こば…小畑。山間の狭い耕作地のこと。 ○こぶ…蜘蛛。 ○こまんちょか…小さい。チビの。 ○こんた…君。お前さん。「こなた」が訛ったのだろう。 ○さだち…夕立。例「あらよ、真っ黒か雲の…さだちどんの来らるばい、早よ戻ろい」 ○さね…果実のタネ。核。古語。昔は梅干のタネを割って中の胚の部分お食べた。 ○されく…さ迷う。彷徨。徘徊。古語。おめてされく…叫んで廻ること。 ○し…椎の実。 ○じいばば…春ランの花芽。蕾がじさまとばさまが抱き合っているように見える。福島郡山では「じじばば」 ○しか…磯辺に生息するアメフラシのこと。容貌が角の生えた鹿に似ている。 ○しかぶる…失禁して漏らすこと。山口でも。独楽の綱がうっかりほどけることも「べえ(糞)しかぶった」と。 ○しこる…鼓舞すること。古語。若者が異性に受けようと祭りなどでパフォーマンスする様。または「勃起」。 ○じご…お尻。嵐口地区では「ずご」と。佐賀では魚の腸(はらわた)のことを「じご」と呼ぶとか。 ○じだ…地面。地所。 ○しのごたる…ごたる、は希望の意と、〜のようだの意味が。しのごたる…死にたい、あるいは死にそうだ。 ○じまめ…地豆。落花生。 ○しゃ…采(さい)が語源。おかずのこと。古語。山本周五郎の時代小説「糸車」でもおかずを采と記述。 ○じゃっで…じゃもね、とも。〜だから、という意味。 ○しゅぎ…祝儀、結婚式のこと。 ○じゅぐっしょ…熟した柿。 ○じゅし…漁師。じゅしどん。 ○しょけ…食べ物を入れて吊るして保管したりする竹製のザル。愛知でも。古語では竹冠に皿と書いて「そうけ」。 ○じょぞ…上手。うまいこと。 ○じょっくゎり…ぬかるみ。裸足や草履で水溜りに踏み込んだ際の音から来た方言か。道路舗装で絶滅危惧種。 ○しょのむ…そねむ。嫉妬すること。鳥取県でも。古語とみられる。 ○しょべんしかぶり…失禁してオシッコを漏らすこと。おねしょ。 ○しりぼ…尻尾のこと。尻の棒というニュアンスか。 ○じろ…地炉。囲炉裏のこと。 ○しんこ…鯛の幼魚。 ○ず…魚の内臓。臓物。 ○すがね…すがれとも。蟻のこと。 ○すここべ…魚のカワハギ。 ○すためる…水を切ること。本来は不要の物を廃(すた)る、廃棄するという意味。 ○すったれ…末っ子。甘えん坊で保護者にくっついていることから「擦ったれ」の字をあてるべきかも。 ○すっちょい…エナガ。シシュウカラの仲間の小鳥。 ○ずつなか…術無い。古語。つらく切ないこと。いかんともし難いほど苦しいこと。 ○すむ…潜水。 ○ずんだれ…ズボンなどをだらしなくずり下げていること。熊本でも地域により、ひどく疲れたという意味も。 ○すんなぞ…するなよ。〜ぞ、というと命令口調。すんなえ、と、〜え、の語尾で軟らかく、うながす場合も。 ○せからしか…やじぇらしか、とも。せかせかと慌しく感じること。煩雑さが勘にさわること。今風の「うざい」。 ○せく…(戸などを)閉めること。 ○せしかう…忙しく立ち働くこと。料理の支度など、主に家事に関して使われるようだ。 ○せりくら…競り比べる。競争。古語。郷里ではもっぱら船のスピードを競うこと。走りっくら、なら東京でも。 ○そびく…そろびく。引きずること。または無理に連行すること。古語。福島県会津でも。 ○たうちがね…シオマネキ。干潟で大きなハサミを上下させていたが護岸工事等で今は見当たらない。 ○たわす…戯(たわ)ぶる。たわむれる。遊び興じること。古語。御所浦では魚が海面で波立てている様子。 ○だれやみ…晩酌。だれる…疲れる。だれやみ、は疲労回復のためか。 ○たんがる…たまがるとも。魂・心臓が飛び出るほど驚くこと。 ○だんだん…ありがとう。広島でも。〜のい、〜な、で敬語。宮崎県椎葉村では「だんだんなお」と言うとか。 ○だんでく…暖竹。温暖な海岸に群生する竹に似たイネ科の植物。 ○ちいめじろ…メジロ♀。ちえめじろ…メジロ♂ ちゅりめじろ…メジロ♂ ○ちじゅかんげ…ちじれっ毛。くせ毛。天然パーマ。 ○ちやいける…転落すること。 ○ちゃんしもた…しまった、これは迂闊だったという意味。 ○つ…イカの甲、または怪我のあとのカサブタ。 ○つくねんさま…お月様。「つくねんとしている」は語源に関係? ○つくら…懐中。鹿児島でも。古語としては、ふつぐら。。 ○つこける…転落する。あるいは、つまづいて転ぶ。 ○つので…つるんで。連れ立って。 ○づつなか…術無か。術がないくらい苦しいこと。気分が優れないこと。奈良でも。古語。 ○つら・・・蔓。主にイモズルのこと。 ○つらんにくさ…面憎し(枕草子)。顔を見るだけで小憎らしく思えること。古語。 ○つんでけて・・・うっかり出てしまって。 ○でくるしこ…ほどほどに。出来る範囲で。 ○てし…自ら作った、という意味。ハンドメイド。 ○てしを…手塩皿。香の物などを載せた小皿。古語。 ○てんぐるまんじょ…肩車。広島では「てんぐるま」と言うそうな。 ○てんげ…手ぬぐいのこと。 ○てんでに…それぞれに。福井でも。方言との言えない方言。てんでんばらばら。 ○どがんしたもんじゃいろ…どうしたもんだろうか。どがんちな…どうなんだろうか。 ○どけ…何処へ、が短縮された言葉。 ○とぎる…研いで鋭く尖らせること。 ○どぐらしか…煮詰めすぎたりして苦味をともなった毒々しいほどの甘味。 ○とごゆる…遊び騒ぐこと。京都、兵庫でも。古語。例「ばあちゃんの寝とらっで、とごゆんな、外で遊ばんか」 ○どし…同士。仲間。仲良し。友達。 ○どしこ…いくら、どれだけ。 ○とすけむなか…とんでもなく。想像の域を超えている状態。 ○とぜんなか…心細く侘しいこと。とぜん、は徒然草の徒然で古語。 ○とっぱさき…岬などの突端。端(はな)ん先とも。 ○とびがらす…タコやイカの口。黒くトビやカラスの嘴の形をしたカギ状の歯。周りの筋肉が美味。 ○〜とて…〜だってば。 ○どべ…どんべとも。びり。最下位のこと。大分でも。 ○とぼす…灯をともす。とぼし…灯明。 ○ども…認知症にともなう言動。 ○どもこも…超すごく。ムチャクチャ。とてつもなく。 ○どろころ…どうにかこうにか。辛うじて。 ○どんくどん…蛙。どん、は殿。昔は生き物にも自然現象にも「様」や「どん」(殿)をつけて敬った。 ○どんばら…ふくよかな腹。 ○とんぼ…魚のベラ。 ○どわるか…構うことないさ。どわるかな…敬語・まあ、構うことないでしょ。 ○なかびる…中昼。午前10時頃の中休み。 ○なぐれる…落ちぶれること。尾羽打ち枯らすという意味。 ○なすんぼ…茄子。 ○なば…キノコの総称。広島でも。 ○なっしょ…納所。厨房。台所のこと。古語。御所浦では食事の支度の意味。 ○なわす…なおす。仕舞うこと。片付ける。鹿児島でも。東京では修理と間違われる。 ○なわる…引越しなどで移動すること。例「テレビは付けっ放しで。とうちゃん、布団ば敷いたでなわって寝ろな」 ○なんかかる…(壁などに)寄りかかること。例「なんかかんなて、障子のうっちゃぶるっどが!」 ○なんぎ…貧乏。 ○ぬすど…盗人。泥棒。 ○ぬる・・・寝る。(古語) ぬんなぞ・・・寝るなよ。ぬんなのい・・・寝ないでくださいね。 ○ねこんべ…アケビ。皮が割れ、中の果肉が猫の糞(べ)に似ているから。 ○ねずみとり…蛇のアオダイショウのこと。 ○ねずむ…つねる。 ○ねったぼ…干しいもをふかしてシャモジでペースト状にした食べ物。昔の夏のおやつの王様。 ○ねぶる…飴などを舌で舐めること。古語。 ○ねまる…腐敗の初期段階。粘るからか。静岡では、ねがる、と言うとか ○のい…相手に同感を促す敬語の語尾。近年は「な」が一般的。同輩、目下相手なら「にゃ」「の」とも。 ○のさる…ありつく。または分配を受けること。 ○のさん…やり切れない。耐え難い。辛いという意味。 ○ばさらか…婆娑羅。野放図。粗暴。古語。御所浦では危なっかしい振る舞いの意味。 ○ばちかぶる…罰があたること。例「こら、井戸んそばにショベンばすれば罰被ってチンポの腫るっとぞ!」 ○はってく…行ってしまう。逃げ去る。あの世に逝ってしまうという場合にも使用される言葉。 ○はぼろし…歯下ろし。ヤツデのこと。マムシが胎内で孵化した子を口から出す際、この木に噛み付き毒牙を抜く。 ○はまんこら…潮が引いて現れた浜辺、磯辺。 ○はるかく…腹掻く。怒ること。憤慨すること。 ○はらんふとか…腹ん太か。満腹。例「腹ん太して、腹ん打ち破るる。餅ば15も食たっじゃもね」 ○はわく…(箒で)掃く。 ○ひして…一日。一日中。 ○ひだるか…ひもじい。空腹。古語。古今集では「干だるし」と記述。腹が干からびてだるいといった感じ。 ○びな…にな(蜷)。磯辺に生息する小型の巻貝。塩茹でにして食す。丸びな、ぐちょびな、尻高、にがにな等。 ○びっしゃぐ…押しつぶす。例「独楽んピー(芯)ばびっしゃぎおったら良か女子の通ったで見とれて手ばびっしゃだ」 ○ひゃ…@灰。A蝿。 ○ひゃる…水に転落すること。例「えくろて、ほたえて、海にどん、ひゃんなぞ」(酔ってふざけて海に落ちるなよ) ○ひゃんべ…蝿の糞に似た青い小豆大の実をつける野草。花は蕎麦に似る。昔は刈り取って豚の餌にした。 ○ひゆ…日当。ひゆとり…日雇い。日雇いの労働者。 ○ひゆじ…ぐうたら。怠け者。熊本県でも地域により「ふゆじ」と発音。 ○ひょこし…火起こし。火吹き竹。 ○ひょごどる…ゆがんでいる。曲がっていること。 ○ひょろ…兵糧が訛ったのだろう。豚やニワトリの餌。 ○ひらくち…蛇のマムシのこと。 ○ひるあがり…午後の中休み。3時頃の一服の時間。 ○ひわ…果実のビワのなかでも丸型の実をひわ、と呼ぶ。びわより原種に近いとされる。 ○ひわり…しゃりんばい(車輪梅)。小指大の黒い実の薄皮が甘い。海岸を好んで自生する低木。 ○ふせ…着物の繕い。当て布。漢字では「布施」? ○ふちゃ…額、おでこ。 ○ふつ…よもぎ。百草。福岡でも。殺菌、止血効果。葉を揉んで患部に押し当てる。 ○ふっかんがす…力任せに引き抜くこと。 ○ぶっきん…魚のフグ。 ○ふのよか…運がいい。幸運である。 ○ふんのむ…うっかり呑み込むこと。または勢いよく呑み込むこと。 ○ふんぴじゃぐ…踏み潰すこと。 ○ぶんむし…カナブン。コガネムシ。 ○べえしかぶり…シロハラ。ツグミの仲間の冬鳥。驚いて茂みから飛び立つ際、びりびり…と腹を下すように鳴く。 ○べえしかぶる…@失禁。A独楽の縄がうっかりほどけること。 ○べえたんご…べえ、は糞尿。たんご、は桶。肥桶。転じてトイレのこと。 ○へぐろ…鍋や釜の底に付着する黒い煤(すす)のこと。墨の原料。 ○へんぶ…昆虫のとんぼ。東京・立川では昔、とんぶ、と呼んでいたらしい。とんぼとへんぶの折衷案だ。 ○ほいと…浮浪者。乞食。現在の福島県会津でも普通に使われている。古語。 ○ほがす…うがつ。穴を開ける。貫通させること。強調する場合は打つをつけ「うっぽがす」 ○ほけ…湯気。。 ○ほたえる…とごえる、の同義語。ふざけ騒ぐこと。 ○ほとびる…水に浸したものが充分に水を吸った状態。 ○みぞか…可愛い。 ○みぞなげ…みぞ、は無情。無情な気。気の毒に。可愛そうに。不憫がること。 ○みたむなか…見とうもない、から転用。みっともないこと。古語。 ○みみんぞ…みみず。 ○むしゃんよか…超かっこいい。りりしい姿が頼もしいというニュアンスも。戦国時代の武者姿から来たのかも。 ○むんなめにあう…無理な目に遭う。困難に遭遇する。ひどい思いをすること。 ○め…海草のワカメ。 ○めかかる…見つかる。心に留ること。古語。九州一円で使われる言葉。 ○めご…ショケより小ぶりで、主に浜で収穫したものを入れる携帯用の篭。女篭。 ○もだえる…熱心にご馳走などを勧めること。接待、またはそのために忙しく立ち働くこと。 ○もや…もやう。催会う。寄って共同のことをすること。郷里では子供が遊具を共有すること等。古語。 ○やうっじゅう…家内中。家族全員。 ○やおいかん…難しく容易でないこと。 ○やぶらか…やわらかい。 ○やぼくら…藪。ブッシュ。 ○やぼちゃっちゃ…繁殖期以外のウグイスの呼び名。藪でちゃっちゃっと鳴くから。 ○やまこぶ…黄金蜘蛛。九州や福井では飼育して戦わせる遊びも。 ○やりかける…(船などが)ぶつかって乗り上げること。また、動物のオスがメスにのしかかること。 ○ゆうご…かぼちゃのこと。かぼちゃの由来はカンボジア。ゆうごはユーゴスラビアと思われる。 ○ゆら…クラゲのこと。ゆらゆらと泳ぐともなく泳ぐことからか。盆ゆらが出たら夏も終わり。 ○よーっと…よくよく、充分に、仔細に。 ○よかしこ…随分な量。しこ、は量。 ○よがむ…歪む。変形すること。 ○よくう…休むこと。 ○よさり…夜。夜更。古語では暗くなるかけの頃。御所浦では夜全体を言う。 ○よとぎ…通夜のこと。「とぎ」は連れ添う意味。古語。死者とともにひとときを過ごすという意味合いか。 ○よのふって…夜の降るあいだ。一晩中。 ○よべ…昨夜。よんべ、ようべ、という呼び方が古語 ○よま…タコ糸など、一般的な縫い糸より太い糸。 ○よみゃ…おべんちゃら。ごますり。 ○よわり…夜漁。松明やカーバイトを焚き、眠っている魚を獲る。昭和30年代までの故郷で行われていた。 ○よんなっせ…どうぞ、お寄りになってください。なっせ…なさりませ、という敬語。上がりなっせ、食べなっせ等。 ○よんにゅ…多数。ゆんにゅ、というと九州一円で通用する言葉。。 ○わがどんが…あの人たち自身が。 ○わっどんが…お前たちが。 ○わやく…冗談。九州一円で使われる。 ○われくりゅわい…君に進呈するよ。くっどな…頂戴。くるっどもん…呉れるだろ。くるっとちかい…呉れるかな。 ○んべ…むべ。アケビの仲間の蔓性植物の実。アケビのように割れない。アケビより甘い。 御所浦弁による実際の言葉 森喜行 作 独り芝居「天草暮色」 九州・天草には大小108の島が点在する。独り暮らしの年代おばあちゃんが住んでいる この不知火海に浮かぶ御所浦島もそのひとつである。 @ だっちかい?・・・ああ、おまいかのい、あらよ、イヲば持ってきてくれたっかのい。えずらしか、ぎゃんいっぴゃ、おら、噛むきらん。あってふとっじゃもね。なんて?大漁てや?…まこてや。ほんなれば、ショカラにでん、しゅうた。イワシのショカラが一番、んまかもねのい。まこてはぁ、昔ゃ、段々畑に上がってカライモ掘りてろん、麦刈りてろんしいおって、沖のはぁ、竹ん島んとこるば定期船の通る時がちょうど昼じゃったで、そるば見計らって昼飯ば食いおったとん、まこて、カライモとイワシの塩辛…懐かしかにゃあ。今時ゃほ、イワシの塩辛も塩分の取り過ぎになっで、健康にゆうなか、て言わっとにゃ。あって昔ゃ急な段々畑ば上がったり下りたり、きつかしごつばして、汗のいっぴゃ出ぇおったで、身体の塩ば欲しがったっばいにゃ。イワシの塩辛はまこて、んまかったにゃあ。こらまこて、だんだんのい。 A ほっでおまや、どけ行くと?茶どん、ので行けよかた。ああ、迫んコバにカライモ堀りぎゃ?あんでー、いさなん畑もイノシシの奴が堀りたくって、カライモは、こまーんかっでんなんでん、根こそぎ食てしもて、人間様にゃ、いっちょんのさらんとて。とうちゃんのおらいた時ゃ、ふたっで電気柵ばしとったばってんのい。あってオルもほう、来年な88じゃもね。とうちゃんや?死んでかるもうあって50年になっとた。月日の経つとの早さよまこてにゃ…。 B あん時のこつぁ、昨日んこつのごて、オラ、思い出すと。 霧の深か朝じゃった。 「年代どーん、年代どーん、ノサバん鼻で岩にやりかけて、うっちゃぶれとる船のあっとじゃばってん、あんたが家ん船に似とるごたっとばのい。あんたが家ん船は見当たらんごたるばってん、あっとかのい?」・・・ここん下ん港に入って来た船ん人の、そがん、おめかっとじゃっで。 「なんて…!あってオルが家ん船は昨日、とうちゃんの買い物に水俣に乗っていかいたまま、戻って来とらんとばえ!」…オラ、タマシの吹っ飛で、そん後んこつぁ、ゆう覚えとらんと。 C 「えくろとらいたっじゃろ」て言う人もおらいた。…水俣で買い物ば済ませてかる、そら、ちっとは焼酎どん、飲んどらいたかも知れんばってん、船の舵が取り損なうほどの深酒は絶対せんじゃったろうとオレにゃ分かっと。あん人は人一倍慎重な性分で。いつも自分で言いおらいたもね。 「夜中にちやいけでもすればわりゃ、船は自動で走っとっで、広か海に打ち置かれて、死ぬしきゃなかっぞ」て。 ぎゃんも言いおらいた。 「水俣かる御所浦島に向かって走っとって一番厄介なこつは霧の出とる晩たい。人家どこるか灯台の明かりも見えんごてなれば、どっちの方角に進めば良かっじゃい判らんとぞ」って。 風でもあれば、ああ、今の時間にこっちかる吹くというこつは、それに対して御所浦はこっちの方角ばい、て見当ばつけらるるばってんのい。あって霧の深かというこつは風は吹いとらんというこっじゃもねのい。 「凪の海ばわりゃ、夜の降って、油の切れるまで、不知火の海ば、ぐるぐるぐるぐる回るこつにでん、成り兼ねんとばい」って言いおらいた。 そぎゃん時ゃのい、ほう、海にゃ、イカ篭のブイのとこっどこに浮いとっどが。あん晩、とうちゃんな、竹筒にヤマツツジの柴ばつけたそるば探したっじゃろてオラ、思うとっと。なんて?ブイばどぎゃんすっとかてや?ほう、暗か海でブイば懐中電気で照らせばばい、ほんの僅かじゃばってん、潮の流れとれば、ちゃぽ、ちゃぽ…て片側に細んか波の立つで、潮の流れの方向が判る筈じゃもん。そがんすれば自分の目指す方角も判っどが。とうちゃんなあって、海のこつば知り尽くした漁師じゃもね。 D ばってんブイも以前に比ぶれば数の少なかったもんにゃ。獲れるイヲは減るわ、漁師は増えるわで競争の激しくなれば、イカ篭でんタコ壺でん、他人が見とらんとこっでブイの綱ば包丁で打ち小切ってくるる漁師もおったで、なかにはブイ無しで篭ば沈むる人もおらいたもん。 とうちゃんな夜霧に閉じ込められて、独りぼっちで船かる身ば乗り出して、イカ篭のブイば探したっじゃろ。生まれたばっかりのボズの寝顔ば早う見ゆうごたる、という一心でなぁ。徒然なかったどた、心細かったろわいにゃぁ。そん時に焼酎の酔いもあったで、海にひゃらいたっじゃろてオラ、思うとっと。 E 網の人たちやら消防団の人たちやらが、いっかかって探してくっだいたとん。 「とうちゃーん、とうちゃーん、とうちゃんよーい!」…オラ、赤子ばかるて、峠の上かる不知火の海に向かっておめたった。声の涸れるまで…。 漁師仲間の船に発見された時、とうちゃんなイカ篭のブイの綱に腕ば絡めたまま、死んどらいたちゅわな。我がが船に打ち置かれて必死でしがみついとるうちに体力がもたんじゃったっじゃろた。 あん時ゃオルが家ん子もまだこまんかったでのい。どぎゃんしゅうかい、て、途方に暮れたばってん、浜でアオサば採って売ったり、イリコの製造納屋で働いたりして、どろころ女子手一つで育て上げたった。 男親のおらんで貧乏は貧乏てちゃ、そんこつで息子が卑屈にならんごて、そんこつばかり思うて必死で育てたった。 F まいっぴゃ茶ば飲めな。高菜もほ、食えな。 なんて?ああ、隣の犬小屋や?いんにゃ、も、空た。こん前ほ、山ん畑ん草やぼん中で山犬の仔もったっじゃろた、5,6匹、目の開いたばかりの仔がきゅんきゅん、哭きおっとじゃっで。オルが通りかかったら、他んた山ん中に逃げたとん、一匹だけ、じっとしとっとじゃっで。近寄って見たら足ば怪我しとっとじゃもね。イノシシにでん、つっかけられたっじゃなかっちきゃ。ほっでほ、隣の家にゃ小学校んボズがおっで、言うっ聞かせたら、そん犬の仔ば連れっ来たった。 ばってんさな、一週間目ににゃ、みぞなげ、死んだっじゃもね。そうしたとこるがのい、ほ、よべじゃったが、オルが夜中に便所に起きてばい、窓かる外ば見たら、つくねん様に照らされて、なんじゃい、黒かもんの立っとっとじゃっで。ゆう見たらおまい、乳の垂れ下がった親犬じゃもね。あらよっこれェ、毎晩、山かる、犬小屋に乳ば飲ませに来とったっじゃろた。そるばってんほ、よべはもう、仔はおらんとじゃもね、死んでのい。母犬のまこて、途方にくれたごて、哭きながる探し回っとる姿ば見とれば、ぐらしゅして、オラ、涙の出たっばのい。母親というとは、人間でん、犬でん、同じじゃろもんのい。 なんて?おるが家ん子や?んー、東京におっと。もう戻って来んと。嫁ごも良か人で、オレへもほ、東京に来ませんかて、言うっくっだっとじゃばってん、なしておまい、言葉もわからん、幼馴染もおらん、ぎゃんして縁先で茶どん飲む知り合いもおらんとこっで、どがんして過ごすかのい。すぐボケてしまうとた。テレビなんかで見ればあっては、マンションの、はあ、お客さんの訪ねて来られば、鉄のドアのぎゃんこまんか穴かる、こうして覗いてのい、まこて、コンクリートん牢屋んごたっとじゃもねのい。 …息子も、オルがこつば心配してくるっと。こん前もほ、羽根布団ば送ってくれたった。東京さん、けえて、言うと。ばってんのい、オラ言うとた、電話で。オラ、父ちゃんの墓ん守りどん、しいながる、ここでどろころ、なんしていくで、心配すんなて。 一人息子てちゃ、こっちにゃ、しごつもなかもね、戻ってけェとも言われんもねのい。 G …なんて?あらよまこて、西の空の黒うなって来たのい。こら、さだちどんの来らるかも知れんばい。ほんなれ畑に早よ、いたっけのい。まこて、だんじゃった。おまいどんがほ、いつも寄って声掛けっくるっで、オルも助かっと、安心た。だんだんじゃったのい。 解説 @ どなたじゃな?ああ、あんたかい。おやま、魚を持って来てくれたのかい?あらまこんなに沢山!私ゃ、食べ切れないよ。なにせ独り者だもの。なに?そう、そんなに獲れたのかね?それじゃ塩辛にでもしようかね。イワシの塩辛はほんにおいしいものな。今時は皆、あまり漬けないけど昔は…家族総出で、段々畑でサツマイモ掘ったり麦刈ったりしとってなあ、沖の竹島のあたりを水俣からの定期船が通る時がちょうどお昼でな、それを合図に昼飯にしとったもんじゃが、蒸かしたサツマイモにイワシの塩辛…懐かしいのう。今時はイワシの塩辛も塩分の取り過ぎになって健康に良くないと言われているしなあ。昔は皆、急な段々畑の登り降りやらきつい仕事で汗をたくさんかいていたから、身体が塩分を欲しがったんじゃろう。イワシの塩辛、ほんに旨かったなあ。こりゃこりゃ、ありがとうよ。 A それであんた、どこかへ行く途中だったのかい?お茶でも飲んで行きなよ。ああ、そこの谷合の畑にサツマイモを掘りに行くのかい。まったくね。うちの畑もイノシシの奴が掘り散らかして、小さいイモでも何でも根こそぎ食ってしまって、人間様にはおこぼれ一つ残してくれないものなあ。とうちゃんが生きていた頃は二人で電気柵を巡らせて畑を守っていたもんじゃが、私もあんた来年は八十八歳だもの。とうちゃん?もう亡くなって、かれこれ五十年になる。本当に月日の経つのは早いものでなあ。 B …あの時のことは昨日のことのように私ぁ思い出すよ。 霧の深い朝だった。 「年代さーん、年代さーん。ノサバ岬の岩に衝突して大破しとる船があってな、お宅の船によう似とったが、まさか違うだろうね。お宅の船はどうした?見当たらんようだが!」…そこの下の港に入って来た船の船頭がそう叫ぶんだよ。 「なんだって…だってうちの船は昨日とうちゃんが買い物に行くって言って水俣に乗って行ったまま、まだ戻って来てないんだよ…!」私はまあ驚いてなあ…。 C 酔っぱらっていたんじゃろうと言う者もおったが…。水俣で用事を済ませてから、そりゃあ、少しの酒は飲んだかも知れないけど、舵の操作を誤るほどの深酒は絶対にしないと私には解るのさ。あの人は人一倍慎重な性分で、いつも自分で言っていたもの。 「夜中に転落でもしたらお前、船は自動で走っているから、広い海の上に置いて行かれて、死ぬしかないんだからな」って。こうも言っていた。 「水俣から御所浦島に向かっていて一番厄介なことは霧の深い晩だ。人家どころか灯台の明かりすら見えなくなれば、どっちへ向かって進めばよいか判らんのだぞ」って。 風でもあれば、ああ、この時刻にこっちから吹いているということは、それに対して御所浦の方角はこっちだと見当がつくけどな。深い霧がかかっているということは風がないということだ。 「凪の海は下手すれば夜じゅう、燃料が尽きるまで不知火の海の上を、ぐるぐるぐるぐる廻ることにも成りかねないんじゃ」って言っていたよ。今のようにナビとかいうものもない時代だからね。 そういうときはほら、海にはイカ篭漁やタコ壺漁に使うブイがところどころに浮かんでいるだろ。あの晩とうちゃんは竹筒にヤマツツジの柴を付けたそれを探したのではないか、と私は思っているんだよ。なに?ブイをどうするのかって?ほら、船を寄せて懐中電灯で照らしてじーっとブイを観察するだろ、それでほんのわずかでも潮が流れていれば、チャポン、チャポン…と片側に小さな波が立つんじゃ。それで潮の流れの方向が判る筈じゃ。そうすれば自分が目指す方向も判るだろ?とうちゃんは不知火の海を知り尽くした漁師なんだからね。 D ただそのブイも以前に比べたら数が少なくなっていたんじゃ。漁獲量は減るわ、ライバルは増えるわで、イカ篭漁でもタコ壺漁でも競争が激しくなって、他人の目の届かない所ではブイの根元からロープを切断されるという事件も頻発しとったからねえ。ブイ無しで篭を海底に沈める漁師も出て来ていたのさ。 とうちゃんは夜霧に閉じ込められて、独りぼっちで、船から身を乗り出して、ブイを一生懸命探したに違いないんじゃ。生まれたばかりの赤ん坊の寝顔を早く見たい一心でなあ。さぞ心細かったろう。そのときに多少の酔いもあったから、海に転落したんじゃろうと私は考えているんだよ。 E 漁師仲間や消防団の人たちが総出で捜索してくれて。 「とうちゃーん、とうちゃーん、とうちゃんよー・・・!」私ゃ赤ん坊を負ぶって峠に立って、不知火の海に向かって叫んだよ。何度も何度も。声のかぎりになあ。 仲間の船に発見されたとき、とうちゃんはブイのロープに腕を絡めたまま、息絶えていたそうだよ。自分の船に置いて行かれて必死でしがみついてるうちに体力が尽きたのだろうね。 あの時は私も乳飲み子をかかえてどうしようかと途方に暮れたものだけど、磯辺でアオサを採って売ったり、イリコの加工場で働いたりして、どうにか女手ひとつで育て上げたんじゃ。男親がいないので貧乏は貧乏でもそのことで息子が卑屈にならんようにと、そのことばかり思って育てたよ。 F お茶、もう一杯どう?高菜の漬物にも箸を伸ばしておくれよ。 なに?ああ、隣の家の犬小屋?いや、もう、空だよ。この間、山の畑の脇の草やぶの中で野犬が子どもを産んだんじゃ。目が開いたばかりのが5,6匹、キュンキュン哭いておってのう。私が通りかかると、他のは山の中に逃げたが1匹だけじっとして動かん。近寄ってよく見たら足に怪我してるんじゃ。イノシシにでもつつかれたんじゃろう。それで、隣の家には小学生の男の子がいるもんでな、教えてあげたら、その仔犬を連れて来た。だけど一週間目には可哀想に死んでしまったんじゃ。そうしたところがあんた、昨夜のことだったが私が夜中にトイレに起きて窓から何気なく外を見たら、満月の月明かりの下になにか黒いものが立っておる。よく見たらそれは乳の垂れ下がった母犬じゃないか。なんとまあ…毎晩、山から犬小屋にお乳を与えに下りて来ていたのだろうね。だけれども昨夜はもう仔犬はいないんだもの、死んでしもうたからな。母犬のほんとうに、途方にくれて哭きながらわが子を探し回る姿を見ていたら、哀れで不憫で、私ゃ、涙が出たよ。母親の情というものは人間でも犬でも同じだろうからね。 なに?うちの子?ああ、東京にな。もう帰っては来ん。 お嫁さんも良い人で、私にも東京に来ませんかって言ってくれる。だけど、どうしてあんた、言葉も分からん、幼馴染も、こうしてこうやって縁先でお茶を飲む知り合いもいない所でどうやって過ごすんじゃ。たちまちボケてしまうだろうよ。テレビなんかで見ていれば、ほらマンションのなあ、お客さんが訪ねて来れば、鉄のドアのこんな小さな穴から覗いてな、まるでコンクリートの牢屋に住んでいるようじゃないか。 息子も私のこと、心配してくれる。この前もほらあれ、羽根布団を送ってくれたよ。心配だから東京へおいでと言うんじゃが、だけど私ゃ言うのさ、電話で。こっちはこっちで父ちゃんのお墓のお守りをしながらなんとかやってゆくから心配するなって。一人息子といったって、こっちには仕事もないもの、戻って来いとも言えないものな。 G なに?おやほんとじゃ、西の空が暗くなって来たな。こりゃあ、夕立になるかも知れんぞ。それなら早く畑に行って来たほうがいい。 ほんとうに、ありがとうよ。あんたたち若い衆がいつもそうやって寄って声をかけてくれるので私も心強いんじゃ。安心だよ。ありがとうよ。 おわり。 |